TCBのこれまで・・・

ポップアップショップをするにあたり、そもそも「TCBとはどんな人?」「WORKERSとはどんな人?」「どうやって知り合ったの?」といったあたりを少し紹介しようと思います。

本日は、TCB・井上の歴史編から。まだWORKERS・舘野と出会う前のお話になります。

本文中に出てくるTCBが初めて勤めたサンダイヤ跡地にて

TCBの歴史編 その1

WKS: そもそも何年、どこ生まれ?

TCB: 1980年、昭和55年生まれで広島の福山の近くです。

WKS: そもそも洋服に興味を持ったきっかけは?

TCB: ミーハーで恥ずかしいんですが・・・中学時代に見た「若者のすべて」ってキムタクが出てたドラマなんです。

WKS: 早熟だね~。

TCB: 中学になるとすぐに新聞配達初めて、確か3万円ぐらい最初のバイト代が入ったんです。だから中学生にしては自由になるお金があって。「若者のすべて」で木村拓哉が演じた上田武志。流石にロン毛にはしませんでしたが彼の少し腰に引っ掛ける感じのジーンズの穿き方やロールアップの幅、革に悪そうなエンジニアブーツの脱ぎ方、タ◯コの銘柄から箱の空け方まで真似して友達と盛り上がってました。

WKS: で、洋服は何を買ったの?

TCB: バイト代握りしてめて、福山でオシャレの登竜門CASPAに行き店員さんに進めらるがままEVISジーンズを買いました。当時の雑誌にも称されてましたが15cmほどロールアップして俗に言う「EVIS穿き」をしてました。

WKS: 確かに、我々の世代だとビンテージはそう簡単に買えない。レプリカ買うのだって清水の舞台から・・・だったよね。

TCB: 自分で意識して穿いた最初のジーンズはLEVI'Sでは無かったですが、前開きがボタンで、縮んで、捻れて、色が落ちて。それを育てて行く感覚。それがとても新鮮に感じたのを今でもよく覚えています。
で、そんな中学時代の後、高校に入るのですが早々にドロップアウトしてしまって。

WKS: そうだったんだ。それからは?

TCB: それこそ、近所の建設系のバイトとかしながら実家ぐらしでノラクラしてました。でも服だけはどうしても好きで、今でも覚えてる97年にマッコイのモナークのA-2買ったり。先の事何も考えないで「バイト何日すればあれが買える!」なんて生活でした。18に成った頃、将来を考えて「やっぱり好きな服の仕事で生きていきたい!」と思い、まずは販売の仕事を探しました。

WKS: 広島、福山っていえば生地屋さんにしろ縫製屋さんにしろ、実は児島以上に集まってるんだけどね。

TCB: 今でこそわかるけど、当時は全くそういう情報も無かったし、何より「作る」にすぐに頭が行かなかったんですよね。大阪に出て、アメ村とか販売員募集を探しても中々見つからず。そんな時に「京都のポーキーズさんが募集してたよ」と聞いてすぐに連絡して採用してもらいました。それが広い意味での「洋服業界」のスタートです。

WKS: その販売員時代に、お互いの共通の知人とTCBも会ってるんだよね。私も、その人から「岡山でジーンズ作ってみたい」なんていう面白い子が居たよって聞いてたし。

TCB: そうです、その方は縫製に詳しい人だったので、お店に来られた時に色々話しました。お店は、レプリカジーンズのようなクラフト系のアメリカンカジュアルがメイン。日々、お店に立っていると門前の小僧ではないですが、やれユニオンスペシャルだ、力織機だ、児島だといろいろ知るわけです。服を売るのも楽しかったですが、もっと知りたい。作ってみたいと、純粋に思うようになりました。そこで、お世話に成ったポーキーズの社長には自分の気持ちを伝え、退職させてもらい児島へ向かいました。

WKS: 向かったって言っても、つては?

TCB: 無いです。電話帳見てかたっぱしから「被服」とか「縫製」と名のつくところに電話しました。でも、どこも「経験者」「男性は縫製工の採用は無い」なんて返事ばかり。そこで、最後にかけたサンダイヤという縫製工場で「もし、ミシンの整備工見習いから始めるならば」という事で拾ってもらいました。

WKS: サンダイヤ、私が勤めてたカマダさんのすぐそばで大きい建物だったよね。

かっこつけてます。3階建ての本当に大きな建物でした。
夏に成ると窓が開いてたから冷房は無かったんだろうな・・・


TCB: そうです、三階立てでした。工場に入った当時はエンジニアードジーンズが良く流れていたのを覚えています。そこで、整備工見習い、そして掃除から何からやるいわゆる「見習い」をさせてもらいました。手が空いた時は自分はオートベルターというループを切って・カン止めをして止める、半自動ミシンを踏ませてもらいました。

WKS: ある意味で、本当の量産工場。今となっては貴重な経験だね。今の日本でそういう、ある程度の量を早く、出来るだけ安価に作ろうというのは難しいからね。

TCB: そうですね。ただ、その方向性にやっぱり今思えば時代とズレが出たのか。勤めて1年後ぐらいに工場の稼働率が6割ぐらい、週の2-3日は休みという状況に成ってしまいました。当然、新米の私にも整理に近い話が来ます。縫製の仕事をもっとしたいという思い半ばではあるけれど生活がある。悩んだ末に退職して他の仕事を始めました。児島のすぐ近くに水島という場所があり、そこで三菱自動車の工場があります。そこで、期間工の仕事を始めました。

WKS: そうだったんだ。サンダイヤからそのまま、また違う会社で働いたのかと思った。

TCB: 正直、期間工を始めてからは不安ではあるけれど、収入は縫製の仕事よりも安定している。自分はこのまま行くのかな?縫製の世界はあきらめるのかな?と漠然と思う時もありました。そんな時、期間工の先輩に自分の身の上話をしたのです。すると、たまたまその先輩の友達で児島で縫製では無いけれど、服に関係する仕事をしている人が居るから紹介しようか?と。もう、渡りに船です。そこで、紹介していただいたのが、矢部さんという方なんです。

WKS: そうなんだ、では次回その矢部さんに登場してもらいましょう。