WORKERS始めた頃の話・・・
TCB: WORKERSは元々ホームページでしたよね?
WKS: 当時も服は作っていたけど、まだ完成度も低い。いきなりそれを売るとか考えないで、まずは自分自身の知識も深めたいし、もっと多くの人に自分の好きな服を知ってもらいたい。そんな想いから、古着やその製造メーカーを調べたりして紹介するホームページを始めたよ。
TCB: 反響はどうでした?
WKS: なーんにも無いよ。よく「壁にボール打って返ってきてまた打って」って感じだなと思ってたもん。ただ、自分で調べたいことがあって、その実物を集めて、出来る限りわかりやすく写真を撮って。その時のノウハウがその後、メーカーとしてWORKERSやるのにもつながるのだけど。
唯一残っていたWORKERS始めた頃の写真。手前の二人は当時の同僚。 14インチのテレビにYKKの箱、立ってる原反、かかったパターンにLeeのアドライト。 奥にはミシンがあって、手前には撮影用のレフ版変わりの段ボールにアルミホイル。 夢はあるけど、置き場が無い!という感じ |
TCB: その当時は、それがそのままつながるとは思っていなかった?
WKS: まったくね。それより「今日はこの写真を撮ってみよう」「あの資料は何とか手に入らないだろうか」「この服解体して、今の設備で縫ってみよう」そんな事ばっかり考えてた。
TCB: 当時、勤めていた仕事に影響は?
WKS: 古着、特にアメリカのワークウェアを知れば知るほど「ラッパ(金具)」や、専用にミシンで縫われていることがわかってきた。カマダのすごい所は、そうやって「このミシンがあれば」「この金具があれば」と思って調べるとあるんだよ。
一枚帯、ちょろっと探しただけでこれだけあってこれはサンプルにしか使ってませんでした なんて贅沢・・・ |
UNIONのこれは帯付けかな? 帯付けだろうと、前立て縫いだろうと、裾巻きだろうとありました。 「うちは恵まれてるよね」って先日登場の旧専務はさらっと言いますが、やっぱり恵まれすぎです。 |
TCB: ミシンの台数、異様でしたよね。
WKS: 古着のある部分の縫い方を調べる。「あ、このミシンが要るんだ」となって社長や専務に聞くと「あるで」って。昔は使っていたけど、徐々にメーカーからの要望がそういう設備を使えるものではなくなった来たので今は使って無かったり。
TCB: もったいないですよね。設備使って綺麗に縫えれば、もっと早い・うまい物が作れるのに。
WKS: そう!だから、いろいろなミシン出してきて自分で縫ってみて「こういう事が出来ますよ」って言う部分縫いを作り出したのがこのころ。シャツの前立てはこういうミシン使って、こういう巾で縫えますというのを作って。それを切ってA4の台紙に張って、取引先に配ったり。
TCB: 反応はありました?
WKS: 一部だね。まだ、いわゆる「ワークウェア」とか「アメリカントラッド」といった、そういう設備を使って縫うとそれらしい物が出来る物が流行りだす前だったから。でも、一部の取引先の人はずっとその部分縫いを保管してくれていて、自社でそういう企画が出た時には自分が会社辞めた後でも勤め先に電話くれたりね。
TCB: そこからどうやって製品作りに?
そういえば、シャツだけじゃなくてニュースペーパーバッグも営業用に作りました。 でも、最初は全然反応が無くてWORKERSで作って売った事がありました。 それを持ってさらに営業してその後何社か会社にオーダーもらえてうれしかったなぁ。 それにしても、好き勝手やらせてくれた勤め先でした。 |
WKS: 会社で部分縫いをしても中々反応が無い。かといって、当時の勤め先はオリジナルブランドは絶対にやらない、自社は裏方だ!ってプライドがある会社だった。私自身もそういう部分が好きだったしね。当時、シャツの工場があったんだけどどうしても仕事が埋まり切らない。そこで縫える製品を形にして、取引先に見せても中々反応が無い。そこで、あるとき上司に「このラインで自社の製品は縫えないから自分の製品を縫わせてくれ」と言ったのが最初だね。
TCB: 会社勤めしながら、そこの1クライアントにもなると。
WKS: ほんと、そういう事を許してくれたカマダという会社に感謝しか無い。で、せっかく作るなら・・・と何とか資金をかき集めてボタンを作ったり。そうこうしているうちに欲が出て、シャツだけじゃなく抜染生地のWabashを作ってカバーオールを作ってみたい。だったらアメリカで作り方を調べないととなって。
TCB: そこがWORKERSの無茶な所ですね。行かなくても良いでしょう?
WKS: いや、当時はあのWabashって生地が先に染めてから色を抜く抜染なのか、それとも、先に柄を糊のようなもので描いて染まらないようにしてから生地を染める防染なのかすらわからなかったんだよ。それで、当時の資料を探すためにアメリカに。
夜な夜なサンプル作り。 本当に、ほとんど初めての「量産品」 工場で流す事前提なので、絶対に間違いあってはいけないと必死。 このころには、もう少し広い所に引っ越していましたが、後ろのカーテンに注目。 前の家から持って行った遮光カーテンです。 |
TCB: よく会社休めましたね?
WKS: それはもう、カマダさんの理解としか。でも言い訳すると、当時、受発注や見積もりをだいぶシステム化したんだよ。AccessとかExcel使って。そのうえで、自分の後に入った後輩には、業務の大部分をマニュアル化して、だれでも同じ仕事をできるようにしていたから。だから、アメリカに1週間近く居た後も専務から「お前が居なくても仕事が回るな」って。
TCB: うれしいような悲しいような・・・
WKS: 会社の仕事って「この人がいないと出来ない」じゃダメでしょ。会社自体が一つの生き物みたいに有機的に動いて。だから、私なんかいないでも会社は回るっていう状況はかえってうれしかったけどな。
WKS: 数年ホームページをやってからだったからか、自分が思っていた以上に反響があってうれしかったな。開いていたラインもWORKERS以外にも仕事が入るようになったし、今度はその自分が作った製品を取引先に見せて「こんなものが作れますよ」って勤め先の営業も出来たし。
TCB: で、いよいよ独立と。
WKS: そういう状況がしばらく続き、社長から「そろそろ独立しろ!」と言われてね。当時は「これ一本でやれるか?」という不安もあったけど、今思えば社長や専務は「今がタイミングだ」って後押ししてくれたんだと思う。
プリント屋さんで 意外と自分の写真って残ってないです、自分で撮るから。 これはカメラ好きのプリント屋さん(現 cafe de blancさん)に撮ってもらった物かな? |
TCB: その後のWORKERSは?
WKS: いよいよ独り立ちしてからは、勤め先のカマダさんだけじゃなくていろいろな工場に仕事を頼むようになったよ。それも社長が「うちだけじゃなく、他でも作れ!」って言ってくれてね。適材適所、自分が作りたいこの製品はどこの工場が最適かなって探して。
TCB: 工場はうまく見つかりました?
WKS: 今でもお世話に成ってる総社縫製さんはお互いシャツの縫い方でつながったんだよ。WORKERS見て「縫い方良く知ってる人が居るな」って思ってくれて連絡をもらい。で、一度工場見においでって言われて行ったり。もともと、ユニフォーム系の縫製工場さんなので技術はぴか一。でもカジュアルの独特な専用ミシンや金具、ビンテージの変な縫い方とかはわからない部分があったので、聞かれれば教えに行ったり。たまたま、今の仕事場から総社縫製さんが車で20-30分と近いのもあってね。そんな風に、隠さずWORKERSでいろいろ公開していたおかげもあって、工場さんは徐々に広がっていったね。
シャツと言えば総社縫製 工場長にも、総社縫製の母体、山崎産業の社長にもお世話に成ってます。 でも、一つだけ私自身の事を自慢?というか、努力してきたことを言いたいです。それは 「工場の設備がわかってるからこそ良い企画が出来る」 それがある程度出来ているのがWORKERSの製品であると、自負しています。 どんなにうまい工場でも、その工場に合わない製品・仕様は良い物が出来ない。 良く「職人泣かせの」とか言うのはうそです。 正当な工賃が出さえすれば、どんなに難しい物でも工場は泣きません。 単純に企画の人間が製造の事をわかっていないから、作る人を困らせるような無理ばパターン・生地・縫い仕様なだけ。難しいじゃなくて無理を通してるから泣くのです。 WORKERSは、私は、本当の意味で洋服を企画するプロになりたいのです。 |
TCB: 最近は展示会もやるようになって。
WKS: 最初は個人様への販売だけだったんだけど、徐々に「卸出来ない?」といった連絡をもらうようになって。そうなると「製品を見てオーダーしたい」という要望を多くもらって、展示会をやるようになったんだよね。半年分のサンプルを一気に作って、会場借りてと資金繰りが大変だったけど。それはもう、銀行さんのおかげとしか言いようが無いね。
TCB: WORKERSはそういうの隠さないですよね~
WKS: だって、株式公開している会社だったら、決算書から何から公開しないといけないじゃない。一人でやってるからって言って、資金繰りだったり事業計画だったりは絶対あるわけで。隠す必要もないしね。自分がアラブの石油王の落とし子で、その遺産で遊びにやってるとか、そういうわけでも無いし。親が縫製の仕事していたわけでもない(公務員です)。TCBもそうでしょ?
TCB: 確かに、うちも親がこの仕事していたわけでも無いので、ミシンはおろか机一台買うところから自分でしないといけないので大変は大変でした。
と、このあたりで「これからのWORKERS」を書こうと思ったのですが、長くなりすぎたので次回にわけます。